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短命だった「DISCシステム」 の話 

短命に終わった「コダックDISCシステム」の話
●Kodak_Disc_

今年も明日でおしまい。

ここのところの立て続けの降雪、毎朝、冬の運動だと思って、せっせと、2-3時間の雪かきをしながら、お正月3が日くらいは、雪も降らず穏やかであることを祈りつつ・・・。
一昨日も、もちろん早朝から雪かきをしていたら、通りがかった方から、ブログをかいているのはあなたですか?・・と。

興味をもってみているのですが、親からもらった「DISCカメラ」は、今使えるのでしょうか・・・とのお問い合わせをいただきました。
一応は、おこたえしたつもりですが、通勤時間との関連もあるでしょうから、「DISCカメラ」について、ブログアップしましょうと、約束をしました。

ということで、今回は、短命に終わった 「DISCシステム」 のお話を・・・・。

イーストマン・コダックは、110フィルムの次世代フィルムとして、1982年2月 画面サイズ8.2mm×10.6mm・15枚撮りのKodak Disc Filmを発売。

Kodak Disc Filmは、これまでのロールフィルムをベースとした製品展開とは全く異なり、直径64mmの円盤状フィルムを回転させて8.2×10.6mmサイズの画面を15枚撮影出来る方式。
●KODAK DISC FILM KODAK DISK SYSUTEM

●3000●4000
●6000・●8000i

カメラの薄型化小型化による軽量化、フイルム入れ替えの簡素化などの利点があったのは事実で、コダックは、ワールドワイドで約1000万台のディスク カメラを販売したと報じたものの、2~3年で市場から姿を消してしまった。

1000万台というのが、真実か否かはわかりかねるが、2~3年で市場からきえていったのは、フイルム面積の小ささによる画質の低下、カメラが薄すぎることによる安定感不足によるカメラぶれ、内臓バッテリーの交換はメーカーにカメラ本体ごとわたさなければいけないなどの不評も買ったということではないか。

日本国内では、ミノルタのみが国内海外販売に踏み切ったものの、他のカメラメーカーはというと、海外、特に欧米市場向けに、富士フイルム(フイルム・カメラ共に)ならびにコニカ(フイルム発売はせずカメラのみ)が参戦した。
●FUJI DISC FILM●FUJI DISC KIT
●FUJIDISC 50SILVER●fujidisc50-001
●FUJIDISC 70SILVER●FUJIDISC 70BLACK
●Konica_Disc_15

ミノルタカメラがディスク カメラシステムの採用に踏み切ったのは、女性層の需要喚起を狙ったということで、人気デザイナーのアントレ・クレージュにデザインを依頼したディスクカメラ「ミノルタ クレージュac101」を発売し、ピンク、グリーン、ブルーのカラーバリエーションをそろえ、注目を集めた。
●minolta_courreges-ac101-vert_-1●minolta_courreges-ac101-rose_-1
●minolta_courreges-ac101-bleu_-1

また、上位機種の「ミノルタディスク5」ならびに「ミノルタディスク7」を発売し、自撮り撮影ができるよう、フレーミングミラーをカメラ本体に装着。
また、「ミノルタディスク7」には、自撮用の「エクステンダー」を製品に組み込んで発売。
●ミノルタDisc7自撮り棒 ●ミノルタDIDC7キット

この「エクステンダー」は、ミノルタが、アメリカで特許を取得したが、商品が普及せず、1993年に特許権が失効し、スマホの普及とともに、韓国企業がこの「エクステンダー」に目をつけて「自撮り棒」として普及発展させていった。
ということで、「自撮り棒」の本家本元は日本生まれということ。

ディスクティルムは、従来のロールフィルムとは全く形状が異なる為に、フイルム現像処理設備及びプリント機器も新たな設備が必要となり、コダックの対応は、もとより富士フィルムも現像処理先への専用処理設備の供給を開始したものの、現像所は仕方なしに設備投資をしたというのが、実態ではなかったのではないか。

発売して10年ももたずに、市場から姿を消し、製品の製造も追っかけるように中止され、2000年1月には、現像処理サービスも中止されてしまった。
コダックは、126インスタマチックシステム、110システムでは先駆者利益もあったが、DISCシステムでは惨憺たる結果に終わってしまったということでしょう。

※ついでに裏話
当時 富士フイルム販売会社に籍を置いていた当方に、トップから、DISCカメラの試作品をわたされ、このカメラシステムを国内販売をするために、全国での現像プリント処理体制についての方策を考えろ・・との指示があり、どう考えてもフイルムの小ささだけ以外に、現像所の設備投資を考えたら、難題と思い、その場で、「不可能なこと・・」と、断ったら、大目玉を・・・。

その場は引き下がったけれど、富士フイルムのDISCカメラシステムに採用されるのと同じフジカラーHRフイルムを使って、一眼レフカメラで、ほぼDISCカメラで撮影したのと同じくらいの画面サイズを想定して、絞り込んでピントがシャープな状態で撮影。
そのあとで、DISCカメラで撮影したのと同じくらいの原版にトリミングした状態でプリントをつくり、再度トップに、そのプリントを見せて説明したら、不機嫌そうな顔をして、わかった・・と。

それ以来、DISCの話はなく、ホッとしていたら、海外発売の発表がされたのには、おどろかされた。
DSC_3458.jpg

「写ルンです」 の話 

「写ルンです」 の話

・lf3DSC_0789
前回のブログで110カメラシステムの「ポケットフジカ200」について、紹介しましたが、110システムが発売されたことによって、「写ルンです」が開発できたといっても過言ではないと思います。

「写ルンです」は、単玉レンズでありながら、プリント品質をどこまで、たかめることができるのかという技術的なチャレンジをして商品化され、開園して間もない東京ディズニーランドに写真業界関係代表者を全国から集め、発表会と合わせての撮影テストを開催し、その場で、それぞれが撮影して出来上がったプリントの品質に参加者一同驚嘆したものでした。

ここ、数年「写ルンです」が、若い方々を中心にしてヒットしてきているとの話題があちこちで取り上げられているのはご承知の通りです。

でも、その画像を拝見するとデジカメにない面白さがあるとのことで、アンダーネガの写真やオーバーネガの写真がもてはやされているようです。
そして、プリントは要らない、デジタル化したデータだけで良いと言う声もきかれるのは残念なことです。

デジカメが、スマホが、鮮やかで、コントラストのついた見た目、きれいで、失敗のない写真が撮れるからなのでしょうか・・。

写真業界にドップリ浸かってきた当方にとっては、アンダーネガの写真、オーバーネガの写真の良さを知れ!といわれても理解しにくいのが実情です。

このことを議論しても結論が出るわけでもありませんので、あえてこれ以上はふれませんが、ここでは、「写ルンです」の生い立ちについて、ふれてみたいと思います。

富士フイルムが芽生えカメラとして、「FUJIPET」を発売し、子供たちに写真に興味を持ってもらいたいと市場導入をしたのが、今から60年前の1957年(昭和32年)のことでした。
・FUJIPETDSC_0434

この斬新なカメラを富士フイルムの依頼で設計開発したのが、甲南カメラ研究所 西村雅貫所長と、デザイン開発をしたのが、東京芸術大学 田中芳郎教授でした。

そして、この甲南カメラ研究所が、1950年代に、20㎜幅フイルム(画面サイズ15×24㎜)を使用した「fimera」という使い捨てカメラを富士フイルムに売りこんできました。
・LF FIMERA 1950

そして、さらに、1963年に、「ECHO」なるカメラを第2の試作品として、もちこんできました。
・LF ECHO 1960

いずれも、商品化しようとの動きは出ずにいましたが、1980年代に入ると、富士フイルムは、「ナイスショット」という使い捨てのカメラを開発しましたが、日の目をみることはありませんでした。
・LF ナイスショット(写ルンです試作)1980

そして、110フイルムの発売とともに、開発された超微粒子フイルム「フジカラースーパーHR100 ポケットフイルム」を組みこんで、カメラではない フイルムにレンズがついた レンズ付きフイルム「写ルンです」が、1986年に発売されました。
・lfDSC_0791
・lfDSC_0790
・lfDSC_0792

「写ルンです」のパッケージデザインは、メカ好きの男性をターゲットとした「フォトジャック」、若者向けを意識した「ピッコ」、「スーパーHR100のフイルム」のパッケージ風のデザインの3タイプが同時に発売されましたが、結果的には「スーパーHR100」をデザインしたものが他に対して圧倒的な売上を記録したこともあり、以後のモデルのパッケージは「フイルム」のデザインを踏襲してきています。

当初は、110フイルムの販売の一助にでもなればとの軽い気持ちで、発売したものの、発売するや意外にも、いつでも、どこでも、気軽に素晴らしい写真が撮れるということで、写真店店頭はもとより、観光地などの売店に加えて、企業などのプレミアム品など、市場で受け入れられました。
市場からは、35㎜フイルム使用の「写ルンです」の発売要望が殺到し、翌年の1987年には、ISO400 35㎜フイルムを採り入れた「写ルンですHi」を発売するとともに、フラッシュ内臓の「写ルンですフラッシュ」も発売され、「写ルンです」市場が形成されていきました。
・lf-hiDSC_0797
・lf-hiDSC_0798 海外市場向けの[Quick Snap]
・LFFDSC_0817 当初はファインダー部分に透明のフイルムが貼られていた
・LFF flash

その後は、新たな研究開発成果を組みこんでは、頻繁に新たなモデルを導入したり、100%資源リサイクルにチャレンジしたりして、急伸してきた「写ルンです」も、デジタル化の勢いにおされ、意気消沈していたのは事実です。

近年の「写ルンです」復活に合わせて、アニバーサルモデルが発売されたりして、かつての実績には程遠いいものの、「写ルンです」の地位を築いていっているのは喜ばしいことだと思います。
・DSC_0932 記念バージョンとして発売された「写ルンですカバー」

・lapotaDSC_0919
1996-7年頃、大人の少年雑誌と銘打った小学館発刊の「LAPITA」(10年前に廃刊)の付録についた「写ルンですカバー」


ポケットフジカ200 3兄弟 

ポケットフジカ200 3兄弟
●1 200シリーズDSC_9949

富士フイルムは1975年(昭和50年)3月1日に、「ポケットカメラシリーズ」 を発売。
その時に市場に出てきたのは、フイルムのほかに、「ポケットフジカ200」 をはじめ、計5種類のカメラが発売されました。

ポケットシステムは、コダックが、1972年導入した110フイルムシステム(画面サイズ13×17㎜)に追従した形となりました。

発売と合わせ、最近、いろいろと話題をなげかけている、ジュリーをイメージキャラクターに採用して展開をされました。
●2 200パンフimg674

その、もっとも初歩的ともいわれる機種、「ポケットフジカ200」ですが、メーカーの記録にも残っていないといわれている機種を含め、「ポケット200 3兄弟」 として、紹介させていただきます。
●3 200シリーズ DSC_9960 
●4 200 DSC_9955発売時の正規のポケットフジカ200

●5 200 DSC_9957どのよう形で、発売されたかわからないポケットフジカ200

●6 200 DSC_9959海外向けに 発売されたと思われるポケットフジカ200F

なお、ポケットフジカ200にフラッシュを装着すると
●7 200flashimg675

ポケットフジカ200Fにフラッシュを装着すると
●8 200F flashDSC_9961


コダックは、写真需要の拡大とあわせた撮影の簡素化と、競争会社との差別化ならびに先駆者利益をえて、市場での優位性をはかろうと、フイルムのサイズをかえるとともにカメラを新発売してきました。

大きくは、1963年に発売した126システム(インスタマチック・画面サイズ26×26㎜)が、はじまりでした。
●126フィルム

そして、今回の110システムです。
●Kodacolor-II 110Film

そして、さらには、1982年にはディスクシステム(画面サイズ8.2×10.6㎜)と、約10年毎に新しいシステムをカメラとともに発表してきました。
●コダックディスク

そのたびに、各カメラメーカーは追従したり、しなかったりをくりかえしてきました。

その後は、デジタル化をみすえて、APSシステム(Advanced Photo System)を、富士フイルム、イーストマンコダック、キヤノン、ミノルタ、ニコンの5社によって共同で開発された「世界標準規格の新しい写真システム」として、1966年4月に販売が開始されました。
●aps_films

画面の露光面積は16.7×30.2mmで、縦横比が従来の各種フィルムと比べて横長 (9:16) なのが特徴で、その基本サイズの左右または上下をプリント時にトリミングすることで、35mm判の通常サイズ (2:3) とパノラマサイズ (1:3) に対応するプリントが、可能となりました。

写真の歴史Ⅲ 

~ 近年の写真の推移 ~


① 戦後のカメラブーム
  カメラといえば高額、高級といわれる時代に、生活のささえとして、東京の下町を中心にして、ものすごい数のカメラメーカーができた。

その後、一流メーカーになったところもあるし、数年の間で消えていった先もあるが、これら町工場的なメーカーを「四畳半メーカー」ともいわれた。

カメラメーカーは、すべての部品を作るわけではなく、下請け工場に依存する部分も多かったので、それらの工場で、規格外として、はねられた部品などを調達し、「写れば良し」ということで、組み立てられたカメラが多数出てきた。

当時は、二眼レフカメラや蛇腹式のスプリングカメラといわれるのが主流でどちらかといえば、組み立てやすい、ブリキ製ボデイに、シャッターとレンズ、を組み込んで・・という二眼レフカメラの製造が主流。

昭和30年くらいまでは、食べるのがやっとの時代、日本人の手先の器用さを利用して、アルファベットのAからZまで(実際には、「J」「U」「X」がないようだが・・・)のブランドの二眼レフカメラが市場に安価ででまわった。

       ●おもカメ Rollei flexROLLEY FLEX

ちなみに、当時は、ラーメンが30円の時代、「ローライフレックス」が、90,000円くらいのなかで、四畳半カメラメーカーを意識してか、ボデイを板金でつくり、ベルトコンベアーで、大量生産化し、昭和25年に、6,800円で発売した「リコーフレックスⅢ」が、二眼レフブームを引き起こしたといっても良い。
       ●おもカメリコーフレックスⅢRICHO FLEXⅢ

② 白黒写真からカラー写真へ

写真需要の拡大とカラー写真化
  写真の普及とともに、だれでも写せる簡単なカメラが開発され、複雑で重いお父さんのカメラから、軽くて使いやすいお母さんのカメラへ。

処理サービス体制の強化
  カラー写真の普及に合わせ、メーカー子会社の処理体制から、全国各地での処理体制化
  富士フイルムは、各県最低一社の新会社を順次設立し、112社の処理サービス体制を展開(フジカラーチェーンラボ、後のフジカラー総合ラボ)。     競合会社との差別化

 1960年[昭和45年]の大阪万博以降、急激に写真のカラー化(カラー化率)が進む
 写真需要の拡大に加えて、白黒からカラーへの移行が急ピッチですすんだ。
       ●おもカメカラー化率035出典:フォトマーケット年鑑

 需要が増えるにつれ、納期競争、価格競争がはげしさをますだけではなく、写真専門店以外のスーパー、コンビニ、薬局などでも写真の取り扱い先が急増。

 フジカラーフイルムの国内シェアは70%だが、フジカラーペーパー(印画紙)は50%超。
       ●おもカメ フイルム・ペーパーシェア出典:ラボ年鑑より図表化

写真取次先が増えるにつれて、並行して、これらの取引先専門の大手のプリント処理会社もできてきた。

これらの先へ、富士写真フイルム以外のメーカーが、カラー印画紙をいかにして使用してもらおうかとの動きも活発化。

さらに、処理の簡素化、店頭で処理できる機材の開発もすすみ、いわゆるサービスサイズといわれるものは、店頭ミニラボ機器を導入して処理。

富士フイルムグループでは、フジカラー総合ラボが、機材のメンテナンスはじめ、品質向上のための技術指導および材料を供給。

店頭ミニラボで、処理できない製品を、フジカラー総合ラボが全面的に対応。

③ デジタル化の機運

1975
  コダックは、世界で初めてのデジタルカメラを開発。しかしながら、当時の経営トップは、まだまだ、写真がなくなるわけはないと結論付けられた。
          ●おもカメKODAK 世界初開発デジタルカメラ世界で初めて開発されたKODAKのデジタルカメラ

1981年
  ソニーが試作発表した「マビカ」はセンセーショナルなできごとで、カメラ各社が本格的にデジカメ開発の取り組みを開始。
          ●おもカメSONY MAVICA開発発表された SONY MAVICA

1988年
  富士フイルムが、世界初で業務用デジタルカメラ「DS-1]を開発 発売
          ●おもカメFujix-DS-1PFUJIX DS-1
  新聞社などでの業務用として、各社が撮影データを無線で飛ばすなどの開発がすすんだ。

1995年
  カシオが、民生用としてQV-10を発売したものの、画質、価格面で、期待できないとの写真業界人の意に反して、爆発的な勢いで 販売。
       ●おもカメCASIO QV-10CASIO QV-10

以降、業務用デジカメ開発以外に、アマチュア向けのデジタルカメラ開発に、カメラメーカー各社、家電メ-カーも参入し、デジタルカメラの開発競争へ。

④ 写真は、一気にアナログからデジタルに・・・

       ●おもカメ写真の歴史 フイルムカメラとデジタルカメラの推移出典:経営分析論Ⅱ

画質の向上などの研究開発が急ピッチですすむため、デジタルカメラの陳腐化は、とくにコンパクトデジタルカメラで発生。
次から次へと改良された機種や新製品が発売されることにより、旧製品化した機種の安売りだけではなく、安く製造するために工場を東南アジア地区に移管し、デジカメ市場が遅れている新興国向けに100$を切るデジタルコンパクトカメラの製造が積極化。

それらが、国内に逆流してきて、市場混乱だけではなく、デジカメ主力メーカーの部門赤字化がクローズアップ。

⑤ カメラ付携帯・スマホの影響も受け、コンパクトデジカメからの撤退

カメラ機能付きの携帯にはじまって、スマホが普及するにつれ、スマホのカメラ機能の飛躍的な向上は、コンパクトデジタルカメラを駆逐してしまった。
       ●おもカメ カメラ出荷台数推移2016-11s出典:淘汰か再編かデジカメ市場の行く手 

なお、カメラ機能付の携帯電話ならびにスマホの特徴的な機種の歴史については、当方のホームページ「子安栄信のカメラ箱」の“カメラ付携帯・スマホがコンパクトデジカメを駆逐” http://koyasu-camerabox.sakura.tv/wp/?p=10038 を参照ねがいます。

写真の歴史Ⅱ 

~ 日本では ~

1848年
  長崎の商人 上野俊之丞が、ダゲレオタイプの機材一式をオランダから輸入し、
  薩摩藩主 島津斉彬の手にわたり、当時は「印影鏡」といわれていた。

1853年
  来航したペリーの東インド艦隊の従軍写真家 エリファレット・ブラウン・ジュニアが、
  日本人をダゲレオタイプのカメラで撮影したとのことであるが、消失して現存していない。

1857年
  ダゲレオタイプのカメラを入手した島津斉彬が、「印影鏡」なるダゲレオタイプのカメラ
  の使い方がわかり、日本人によって写された島津斉彬の銀板写真。
          ●島津斉彬
  
1862年
  長崎の商人 上野俊之丞の次男 上野彦馬が、長崎 中島河畔に「上野撮影局」を開業。
  下田の下岡蓮杖が、横浜の野毛についで弁天通り横町に写真館「全楽堂」を開業

1903年
  小西本店(後のコニカ)が日本初の市販カメラ「チェリー手堤用暗函」を発売
  輸入されたカメラを参考にして、家具職人がボデーをつくり、輸入品のレンズと
  組み合わせたもので、日本の技術力ではカメラの開発はできなかった。
         ●チェリー手提暗箱

1929年
  日独写真機商店(後のミノルタ)が「ニフカレッテ」発売。国産初のカメラ
          ●二フカレッテpht_large_1929


国産フイルムは

1921年
  東洋乾板が国産初の乾板をようやく完成

1928年
  旭日写真工業が「菊フヰルム」発売
          ●菊フイルムPB293896

1929年
  六桜社(のちの小西六本店)が「さくらフヰルム」発売
          ●さくらクロームフヰルム

1931年
  大日本セルロイドが「大日本フヰルム」開発
          ●大日本フイルムp011_01c・

1934年
  大日本セルロイドを分社化して、富士写真フイルム誕生し、
  その後、東洋乾板を吸収合併し、映画用ポジフイルムを完成

1934年
  オリエンタル写真工業が「オリエンタルクロームXフイルム」発売。
          ●オリエンタルクロームXフイルム2

1937年
  富士写真フイルムが「富士クロームフイルム」「富士ネオクロームフイルム」
  「富士ネオパンクロマチックフイルム」を発売
           ●富士クロームフイルム1936年・

         
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1935年
  コダックは、世界初のカラーフイルム「コダクローム」を発売
          ●コダクローム・・・d
   ※ 当時のフイルム小箱に、「FOR RETINA, CONTAX, AND LEICA CAMERAS」と、
     明示されているのは興味深い。

1936年
  アグファが、「アグファカラーノイ」を発売。
   ※ この「アグファカラーノイ」が、以降のカラーネガフイルム開発の基礎となった。

1940年
  小西六が、国産初のカラーフイルム「さくら天然色」を発売。
          ●さくら天然色フイルム

1948年
  富士写真フイルムが、「フジカラーフイルム」を発売
          ●フジカラーフイルム・

「コダック」を始め、海外製品に頼っていた市場の中で、国産フイルムは苦戦を強いられたものの戦時経済の中で、国産品愛用、輸入削減の波に乗って、徐々に地位向上もでき、国産のフイルムは、軍需・報道の需要拡大にも援護され、急成長をとげた。

戦後、原材料不足と統制が厳しい時代が続いたが、その後、GHQの統制も緩やかになり、写真人口の増大とともに、国産フイルムは活況を呈していった。

当時の国内市場をみると、「小西六写真工業」の優位性が高く、長い間、「小西六写真工業」は、トップの座に君臨していたが、昭和30年代の「さくらパンフイルム」の事故対応と、昭和40年代のカラーフイルム流通整備の遅れもあり、「富士写真フイルム」が一気にトップの座を奪い取り、その後「小西六写真工業」が返り咲くチャンスにも恵まれることがなくなった。

そして、「小西六写真工業」は、カメラのコニカブランドに統一した 社名 「コニカ」に変更し、さらに、フイルムも「さくらカラー」から「コニカカラー」に商標変更した。

その後、「ミノルタカメラ」と統合し、「コニカミノルタ」に社名変更したものの、2006年(平成18年)写真事業分野を「大日本印刷」系列の「DNPフォトマーケッティング」に譲渡して、3年後の2009年(平成21年)にフイルム生産事業を完全に打ちきり、フイルム製造及び販売事業より撤退した。

海外では、「コダック」が2012年(平成24年) 「米国連邦破産法第11条」の適用を申請し、法的整理から脱却し、基幹産業をグラフィックアーツ関連事業に集約し、「コダックブランド」の写真事業を、英国コダックの拠出年金運営ファンドであるKPP社が、買収し、2013年に新会社「コダック アラリス」を設立し、プロ用、アマチュア用カラーフイルムを1種類ずつ、販売している。

また、ドイツの「アグファ」は、2004年(平成16年」に、フイルムビジネスを別会社「アグファフォト」に事業売却したが、その「アグファフォト」も残念ながら、1年余で経営破綻し、フイルムブランドは一時OEMでイタリアの企業で、商品化されたものの霧散してしまった。

ちなみに、「富士フイルム」は、カラーフイルムの存続はするものの、モノクロフイルムは、本年秋撤退。
モノクロフイルムは、イルフォード、サイバーグラフィックのオリエンタルが取扱っているうちに、撤退してしまおうとしたのでは・・と、いうひともいるが・・・。